ふきよせるかぜになびく文

根無し草の戯れ言です。労働とか文化とか。

服をまとわぬ俳優たちは

 もし仲のいい女友達がいて「『君の名前で僕を呼んで』観た?」と訊かれたら「ティモシー・シャラメが上半身裸で出てくる映画ね」と返すだろう。

 映画の舞台北イタリアの夏が温暖なのはよくわかったが、あまりに多いので(家の中でも)、また裸かよって思ってしまった。ティモシー・シャラメの身体は美しい。それは筋肉隆々ではなく、若くて肌がきれいという意味で。だから、別に構わないのだけど。

 北野武主演のウェイン・ワン監督作品『女が眠るとき』の西島秀俊にもホテルのプールサイドで水着のシーンがあった。鋼のような肉体が凄すぎて、物語と無関係にため息が出た。そして小説家という役柄だったので、そんな筋肉の作家っているかな……とつっこみたくもなった。

 そういえば、是枝裕和監督の『誰も知らない』でも柳楽優弥演じる少年は、家の中のシーンでは上半身裸が多かった(はっきり覚えていないが、ポスターはそう)。だがそのことが気になった記憶はない。子どもだからだ。

 ある程度の年齢を重ねると、その役者の人生がどうしても身体に出てしまう。西島秀俊がそうであったように、作中のキャラクターにぴたりと一致する体つきを都合よく俳優が備えている幸運は少ない。これは役作りやメイクアップ(顔や髪とちがって)だけではごまかせないものだ。暗がりのベッドシーンなら問題なくても、明るいシーンではやはり気になる。『グラディエーター』みたいにほとんど上半身裸のシーンの映画なら役作りの一環として、演者は身体を鍛えるだろうが、体型があらわになるシーンが限られるような映画やドラマではそうもいかないはずだ。

 つまり映画の上半身裸とは、基本的に若い俳優だけに向いている被写体なのではないだろうか。それならば、夏の北イタリアでカメラを向けない手はない。なにより観客たちは若い男の裸が嫌いではない。

 『君の名前で僕を呼んで』は、すぐれた映画ではあるが起伏の少ない展開のために、ややもたもたする時間帯が訪れる。だが、それでも観客の心を離さないのは、ティモシー・シャラメの美しさによるところが大きかった。彼の整った面立ちは十分に観客を惹きつけるが、もうひと押し!と文字どおり一肌脱いでもらいたくなる監督の気持ちはよくわかる。