ふきよせるかぜになびく文

根無し草の戯れ言です。労働とか文化とか。

かばんは四次元ではないけれど

    長財布がズボンのうしろポケットから、半身どころか、選挙カーの窓から体ごと乗り出す鈴木宗男の箱乗り状態となってこぼれ出ているのをたまに見かける。前からあれを見るにつけて、落としたり盗まれたりしないのだろうかと、他人事ながら心配になる。

    僕の財布はいつもかばんの中だ。それがいちばん安心だから。本当にそれだけの話なのだが、うしろポケットに財布を収める人たちを考察してみようと思う。暇である。

   それはおもに若い男子。チャラい傾向が認められる。夏季に限れば、デニムの短パン率が7割を超えている。そして総じて荷物が少ない。もっと言うとかばんを持たない。あぁ、そうか。かばんを持たない彼らがものを収める場所はズボンのポケットしかないのだ。そして前はスマホだろうから、おのずと財布の場所は決まってくる。

    ではなぜ彼らはかばんを持たないのか。お金がないのか。いや、ちがう。かっこいいのだ。「ものを持たない=スマート」という価値観は必ずしも主流ではないが、いつの時代も絶えず存在している。子どものころ、たとえば放課後や休みの日、僕たちはかばんを提げて出かけたりはしな買った。つまりものを持たないというのは、それだけで煩雑な社会と一定の距離を取っている印象を与える。そして、そういう人はだいたいモテる。

    扇子、目薬、眼鏡、リップクリーム、スマホの充電器、目薬、ボールペン、ミンティア、文庫本、日傘、飴(散乱)、ガム(散乱)……。

    今、自分のかばんをのぞいたらこれだけのものが入っていた。もちろんこの文章を書くための電子機器も。財布ひとつで街を歩けるって知っていながらなぜこういうことになるのだろう。大長編で急な敵襲を受けたドラえもんが決して空気砲を一発で出せないように、いざと言うときに必要なものがサッと出ず、まごつくこともしばしばだ。もっとも、気の利いた言葉とか機転の利いた応対とかがサッと出てきたこともないので、いまさら悲観するようなことでもない。

 少年のように身軽でありたいけれど、抱えてる荷物はあまりにも多く、重い。モバイル版ミニマリストを目指し、とりあえずはべたべたの飴とふにゃふにゃのガムをかばんから放逐しようと思う。