ふきよせるかぜになびく文

根無し草の戯れ言です。労働とか文化とか。

マラソンとチケット 前編

 チケットの先行販売は午前10時から。

 何としても観に行きたい舞台である。ところがチケット予約のその日、僕はマラソン大会に参加する予定になっていた。距離は10マイル。16キロだ。出走時間は? 大会の綱領を確認してみると8時半に号砲とある。16キロという距離は初めてだが、10キロの持ちタイムは1時間弱。それを参考にすれば1時間半くらいになるだろうか。

 8時半スタートで予想タイムが1時間半……。奇遇にも僕がゴールテープを切るであろう時刻とチケットの先行販売開始時間が完全に一致しているのである。人気俳優が主演の舞台だ。良い席はすぐに売り切れてしまうにちがいない。はからずも僕はチケットのために走ることになった。健康のため、達成感を味わうためなどと悠長なことを言っているファンランナーと一緒にされては困る。僕は事実上のシリアスランナーである。

 晴天に恵まれた大会当日。会場の江ノ島は最寄駅からすでに人で溢れている。オリンピックに向けた連絡橋拡幅工事のため、会場につながる唯一の道が先斗町くらい狭くなっていて、江ノ島に上陸するのにも一苦労だ。そういえば、工事の旨とそれを理由として早めの現地到着を強烈にお勧めするハガキが送られていた気がする。だが僕はあまたのDMと同格の扱いをしていたので、飛行機なら搭乗開始がとっくに始まってるような時間帯に登場し、一向に進まない行列の後方でイライラしまくっていた。

 走る前から這々の体となって江ノ島に上陸するとすぐにせわしなく着替えを済まし、スタート地点に立つと準備運動もそこそこに号砲が鳴った。

 市民マラソンによくあることだが、最初はランナーで混み合ってジョギング程度のスピードしか出せない。くだんの連絡橋の道が狭いため江ノ島脱出までの道のりさえ長い。

 国道134号線に出ると、左手に見える相模湾が冬晴れの光に照らされて、穏やかな波を急き立てているようだ。僕もまたマラソン日和の海風にかつがれるようにして前へ前へと全身を乗り出して駆けていく。

「1キロトウタツデス」

 僕の左腕のアップルウォッチがつぶやいたのでびっくりした。もちろん1キロ到達した時のことだ。買ったばかりで普段はBluetoothのイヤホンを使っているので知らなかったのが、なんとアップルウォッチは本体が喋るのである。しかもこれが結構大きな声を出すので、近くのランナーの一瞥を食らった。僕にとって一瞥とはボクサーが食らう一撃と同じくらい、精神的なダメージが大きい。

 設定を怠った自分が悪いのだが、明瞭な音声で1キロごとにラップタイムを律儀に伝えてくれるアップルウォッチは世話好きのコーチングスタッフ状態にある。本来、進捗を実感できるはずの1キロの区切りが来るたび、音がなるべく漏れないように左手首を包み込むような仕草を繰り返す羽目になった。気がつけば防風林にさえぎられ相模湾の姿は見えなくなっている。次の1キロに気を揉みながらも足を止めるわけにはいかない。