ふきよせるかぜになびく文

根無し草の戯れ言です。労働とか文化とか。

ゆりちゃんの奮闘

 アメリカのオーディション番組に女性芸人のゆりやんレトリィバァが出場し、その突飛なパフォーマンスと英語力が話題になった。

 最初にTwitter上に流れてきた動画を見て、「ゆりやん凄い」と率直に思ったのだけど、世間の評判はそうではなく、総じて手厳しかったので意外に感じた。

 「笑われているだけ」「裸で踊るのは下品」「あれは芸ではない」

 元々ゆりやんのネタが好きなので、何の違和感もなく受け入れてしまったが、あのステージは、フラットな視点から見ればそう見えるらしいのである。確かにあれが、上品な芸かと問われたら、高速で首を横に振るしかないが、そこに戦略があったことは確かだ。

 最初、ゆりやんに向けられる審査員のまなざしは「欽ちゃんの仮装大賞」に出場する子どもに向けられるそれに近いものがあったと思う。日本からやってきた垢抜けない「パフォーマー&ダンサー」を名乗る女の子が出てくれば、観客や審査員は応援してあげようという気になるのも当然だ。

 だが、ゆりあんはそういう風に見られることまで織り込んで、ネタを仕上げてきた。黒い服に身を包み、控えめな質疑応答(つかみには成功)から一転して披露した過激な衣装と珍妙なダンス、そして審査員への誘惑と挑発。その「裏切り」によって生まれた番組内の盛り上がりは、殊勝な女の子への同情や、おかしな東洋人への嘲笑ではなかった。

 要するにウケていた。これはゆりやんの作戦勝ちだ。

 英語だってネイティブほど流暢なわけでもなく、ネタは手首をこねくり回して動き回るだけ。異文化のステージでできることは限られていると分かった上で「出てみたい」と野心を抱き、それを実行する度胸こそ称賛するに値するし、その挑戦的なメンタルは今の日本人に足りないものかもしれない。少なくとも自分には足りない。

 ただそんな彼女の蛮勇も一方では人を不快にしていた。それもまた事実だ。振り切れた芸風で突き抜けていくのも良いけれど、やっぱりみんなに好かれるゆりやんの部分も残して欲しいとも思うのだ。

 

 

アルタという北極星

 女性には方向音痴が多いという話を聞いたことがある。狩りに行って戻ってくる必要があった男性とちがい、家を守っていた女性は男性と比べて空間把握能力が発達しなかったという。これは科学的にも信憑性があるらしい。そういえば、縦列駐車を苦手とする女性もよく聞くので、空間把握能力における性差は確かなのかもしれない。

 ただ男性でも、新宿駅で迷子になってオロオロしたり、縦列駐車の成否はその日の調子次第という、投げてみないと状態がわからない出たとこ勝負のセットアッパーみたいな者もいる。もちろん僕のことだが、新宿はアルタが見えればこっちのものだし、最近では縦列を強いられるような場所に駐車をしない。むしろ、僕の空間把握能力の低さが問題になるのは、後ろ髪のヘアアイロンである。

 たまに美容系YouTuberのヘアセット動画を参考にするのだが、彼らは平然と後ろ髪にヘアアイロンを当てている。僕からするとこれが「技、神に入る」レベルのテクニックに見えるのだ。

 適量の毛束をつまみ取り、それをヘアアイロンに挟み込んで、望むような動きを髪につけていく。それを感覚だけでやる。動画を見ながら、TVでやっていた遠隔操作の外科手術を目の当たりにしたときと同じ深さのため息が出てしまう。彼らの祖先は質のいいイノシシのためなら2、3個、山を越えていたに違いない。ルービックキューブも易々と完成させるのではないか。僕のように、得意な友達に完成してもらった六面体を「もったいなくて壊せない……」などとオブジェ化させることもないはずだ。

 そう、僕の空間把握能力の低さは今に始まったことではないのだ。小学校の調理実習で、エプロンの紐を後ろで結べたことがない。いつも誰かに世話を焼いてもらっていた。もっとも、僕と同じようにエプロンの紐を結べない男子はたくさんいた。かたや女子は自分で難なくやっていた記憶がある。

 そう考えると、必ずしも女性の空間把握能力が低いとは言えないような気もする。ヘアアイロンだって、おそらく女性の方がする人は多いし、ネックレスのチェーンやブラジャーのホックなど、女性は日々ノールックの作業を求められている。

 GPSの発達で、地図を正確に読む機会は減り、車の電装化が進めば縦列駐車に苦労することもなくなるだろう。やがて男性の空間把握能力が退化し、ルービックキューブの世界大会に女性がズラリと並ぶ未来が来るのかもしれない。

 

 

フェイスガードの余得

 プロ野球選手が、あごから口元を覆うフェイスガードを着用するのをよく目にするようになった。元々は顔付近に死球を受けた選手が、復帰後に着けるケースがほとんどだったが、厳しい内角攻めにあう強打者や外国人選手を中心に広がっているようだ。

 先日、フェイスガード関連のネット記事を読んでいたら、巨人の坂本勇人選手が単なる死球対策だけでなく、打席に集中できている感じがすると、フェイスガードの思わぬ効果に言及していた。

 なるほど、視界が狭まることによって不要な視覚情報が遮断でき、向かってくる球にもミートしやすくなるというのは、未経験者の僕でもなんとなく想像がつく。

 そういえば、何かをよく見ようとするとき、子どもが手で双眼鏡を真似た仕草をよくする。もちろん僕もした。実際に遠くのものが大きく見えるわけではないが、視野が絞られることで対象物にフォーカスしやすくなるという効果が全くないわけではないだろう。よく聞こうとするときもまた、耳の後ろに手をやったりするが、これもまた「ちゃんと聞いています」というポーズではなく、相手の声を正確に聞き取るための知恵である。

 すなわち我々はもともと備わっている機能を拡張するのが得意なのである。それは、「手」の本来的な目的ではないが、それはフェイスガードも同様だろう。

 先日、伸び散らかした髪のセットをするのが面倒臭くなり、珍しくキャップをかぶって出かけ、スターバックスでいくつかの作業をしたのが、いつもより集中できている感覚があった。気のせいといえばそれまでだが、前髪をいじらずに済み、テーブルに目を向ければバイザー部分のおかげで、強力な「前方不注意」状態が完成する。目深にかぶればかぶるほどに。

 しかし、よくよく考えてみると、もっとも手っ取り早いのはメガネではないかという気もする。僕がかけるのは字幕映画を観る時くらいだが、メガネをすると対象物以外への注意は向きにくくなる。

 勉強好きで頭のいい生徒はメガネというステレオタイプがあるが、勉強をいっぱいしたから目が悪くなったのではなく、生来目が悪くメガネをしているぶん、集中力が高く勉強ができるようになったという可能性はないだろうか。

 小学生で漢字テスト0点、中学生で数学のテスト31点を叩き出した、当時の僕の取り柄が、圧倒的な視力の良さだけだったことがこの仮説を補強している。

 今でも地方を中心に自転車通学の児童や学生がヘルメットをしているが、彼らにもフェイスガードを! という機運が高まれば、そのまま授業に出席することをお勧めしたい。生徒たちが内角の球を見事にさばけるようになるわけではなく、集中力の維持・向上が期待できるからだ。

マラソンとチケット 後編

 これは僕の体感だが、ランナーのランニング用レギンスの着用率は98%である。レギンスを履いてると見てわかるのだから、ランニング用レギンス+ショーツ率のことだ。僕はランニングタイツこそ履いていたが、その上に長いスウェットを着ていた。これがとんでもない少数派なのだ。別に僕もレギンス+ショーツで走ることもあるが、「冬だしスウェットでいいや」と下した安易なチョイスのために、とんでもないオールドスタイルとなってしまった。その一方で、最新のアップルウォッチを着けており、時代設定が完全に錯綜している。

 マラソンという行為は「しんどい」と思われるかもしれないが、どちらかというと「ヒマ」である。特に残りの距離が半分を切り、感覚的に「完走はいけそうだ」となってからのヒマは極まる(特にタイムの目標がない場合)。僕の場合は小うるさいアップルウォッチのラップタイムのお知らせを制しつつ、自分と同じようにレギンスを見せないランナー、いわば黒電話ランナーとも言うべき同志を探しながら走ることで時間を潰した。後半はほとんど抜きつ抜かれつするランナーたちの下半身ばかりを見ていたので、着用率98%というのは実に正確なデータである。

 他人の下半身を凝視することにも飽き、今後の人生の展望などに思いをめぐらせているうち、ドラマ性もなく僕はゴール地点を通過した。ラップタイムを確認すると最後の1キロが最も速い。意外にも余力を残せたのは、十全の準備によるところが大きい。職を失っている強みだ。タイムも距離10キロを走った時よりも少し速いくらいのペース。まぁ朝から色々と面倒なことはあったし、走り出してからもあれこれ考えることは多かったけれど、結果的にいいマラソン大会だった……という怒涛の一連があった場合、誰がチケットのことを覚えているだろうか。

 僕がチケットのことを思い出したのは昼の2時過ぎ。チケットの販売開始から4時間以上が経っていた。チケットのことを忘れていたというより、あれだけ気に揉んでいた10キロのタイムから逆算してチケット販売開始に間に合うか否かうんぬんのキャンペーンが丸ごと記憶から吹き飛んでいた。

 結局、土日のチケットは完売。仕方なく平日のチケットを購入することができたけど、公演日である5月下旬の平日に僕が何をしているのか。全く予想ができない状況である。

マラソンとチケット 前編

 チケットの先行販売は午前10時から。

 何としても観に行きたい舞台である。ところがチケット予約のその日、僕はマラソン大会に参加する予定になっていた。距離は10マイル。16キロだ。出走時間は? 大会の綱領を確認してみると8時半に号砲とある。16キロという距離は初めてだが、10キロの持ちタイムは1時間弱。それを参考にすれば1時間半くらいになるだろうか。

 8時半スタートで予想タイムが1時間半……。奇遇にも僕がゴールテープを切るであろう時刻とチケットの先行販売開始時間が完全に一致しているのである。人気俳優が主演の舞台だ。良い席はすぐに売り切れてしまうにちがいない。はからずも僕はチケットのために走ることになった。健康のため、達成感を味わうためなどと悠長なことを言っているファンランナーと一緒にされては困る。僕は事実上のシリアスランナーである。

 晴天に恵まれた大会当日。会場の江ノ島は最寄駅からすでに人で溢れている。オリンピックに向けた連絡橋拡幅工事のため、会場につながる唯一の道が先斗町くらい狭くなっていて、江ノ島に上陸するのにも一苦労だ。そういえば、工事の旨とそれを理由として早めの現地到着を強烈にお勧めするハガキが送られていた気がする。だが僕はあまたのDMと同格の扱いをしていたので、飛行機なら搭乗開始がとっくに始まってるような時間帯に登場し、一向に進まない行列の後方でイライラしまくっていた。

 走る前から這々の体となって江ノ島に上陸するとすぐにせわしなく着替えを済まし、スタート地点に立つと準備運動もそこそこに号砲が鳴った。

 市民マラソンによくあることだが、最初はランナーで混み合ってジョギング程度のスピードしか出せない。くだんの連絡橋の道が狭いため江ノ島脱出までの道のりさえ長い。

 国道134号線に出ると、左手に見える相模湾が冬晴れの光に照らされて、穏やかな波を急き立てているようだ。僕もまたマラソン日和の海風にかつがれるようにして前へ前へと全身を乗り出して駆けていく。

「1キロトウタツデス」

 僕の左腕のアップルウォッチがつぶやいたのでびっくりした。もちろん1キロ到達した時のことだ。買ったばかりで普段はBluetoothのイヤホンを使っているので知らなかったのが、なんとアップルウォッチは本体が喋るのである。しかもこれが結構大きな声を出すので、近くのランナーの一瞥を食らった。僕にとって一瞥とはボクサーが食らう一撃と同じくらい、精神的なダメージが大きい。

 設定を怠った自分が悪いのだが、明瞭な音声で1キロごとにラップタイムを律儀に伝えてくれるアップルウォッチは世話好きのコーチングスタッフ状態にある。本来、進捗を実感できるはずの1キロの区切りが来るたび、音がなるべく漏れないように左手首を包み込むような仕草を繰り返す羽目になった。気がつけば防風林にさえぎられ相模湾の姿は見えなくなっている。次の1キロに気を揉みながらも足を止めるわけにはいかない。

 

 

古いドラマを持ち出して

 機械などの構造や性能を表示したもの。仕様。また、仕様書。

 手元の電子辞書には、そう表示されている。

 電子機械に暗い僕でさえ、時たま耳にするスペック。specificationの略だ。ちなみにspecificationを英和辞典で引くと明細、基準、水準、仕様書などと出てくる。TOEICをたまに受けるけど、試験では明細や仕様書の意味で出てくることが多い。

 電子辞書の言葉を借りれば「性能」というのが大元の意味で、そのものだったり、それが書かれているものだったりと比較的広く使われているようだ。いずれにせよ、おもにパソコンをはじめとする精密機器に向けられてきた言葉である。

 だけどここ数年、機械以外への使用例を耳にすることが増えた。人である。いや、人というより男だ。結婚適齢期に差し掛かった女性たちが学歴や年収、社会的地位、容姿といった尺度で男性を値踏みするときに「あの人はスペックが高い」などと口にしている。そう言えばこの前テレビで「ハイスペ合コン」なるものもやっていた。

 得も言われぬ不快感を覚えるのは、僕がポケベル並みのスペックを自認しているからだけではない。とはいえ、妙齢の女性に対し、結婚相手に経済力や社会的なステータスを求めるなと言っているわけでもない。

 かつて現職の厚労相による「女性は産む機械」という発言が問題になったことがある。改めて前後の文脈を確認してみると、必ずしも女性を蔑視しているわけではない。それでも有権者は敏感に反応した。これも名状しがたい不快感のせいだろうか。

 気象庁の発表する不快指数なら、それは高温と多湿によるものだとすぐにわかるのだが、心の機微は温湿度計で測れたりはしない。要するに僕たちは、なんでもこなしちゃうパソコンではないし、効率よくモノを作るためのマシンでもないのだ。

 「やまとなでしこ」というドラマがある。玉の輿を狙って日夜合コンに励む松嶋菜々子扮する客室乗務員の桜子が、やがて本当の愛を見つける物語だ。毎年のように再放送されている時期があり、7〜8回くらい見てる気がする。出演者の一人が不祥事(というか刑事事件)を起こしたせいで再放送されなくなって久しいが、見ていない人にはオススメしたい平成を代表する秀作だ。堤真一出世作でもある。脚本は中園ミホだ。

 なぜそんな古いドラマを持ち出したかといえば、あの当時もし「スペック」という言葉があったなら、桜子はその言葉を使っただろうか、と考えてしまうからである。桜子は美貌を武器に合コン相手の品定めを繰り返していたけれど、決して「悪女」や「嫌な女」として描かれたわけではなかった。なぜか。

 高級マンションに住むふりをしながら、洋服を買うためおんぼろのアパートに住む虚栄心。頻繁に差し挟まれる貧しかった幼少期の回想シーン。しつこいくらい貧乏へのコンプレックスを示すことで、彼女はある種のチャーミングさとワケあり感を獲得していたからだ。周到な人物設定によって反感を持たれないキャラクターに仕上げた脚本と演出は巧みだったと、今になっては思う。

 桜子を憎めない人間にするためあれこれ手を打っているのに、もし「あの男はスペックが低いわね」などと言い捨てるセリフがあったらどうだろう。少なくとも僕は心穏やかにドラマを観られる自信がない。

 本来、機械に対して使っていた言葉を使うことは、内面や人柄に興味を持てない人間であると宣言するに近い。そういう人に「スペックの高い男性」は果たして興味や関心を持つのだろうか。

 人は自分という物語を生きているというけれど、僕たちの記憶にとどまる物語の主人公たちはどういう生き方をしているのだろう。

 

明けの明星は東の空に輝く

 日本一の漫才師を決める漫才の大会、M-1グランプリが放送された。平成最後の開催で平成生まれのコンビが初めて優勝するなど、例年以上の大きな盛り上がりをみせ、視聴率もとても高かったようだ。僕はリアルタイムでは観られなかったけれど、録画したものをあとでまったりと観た。スポーツとちがって結果がわかっていても面白い。改めてすごいソフトなんだと感じる。

 さて注目度が上がるにつれ、審査員にも視聴者の視線が向けられる同大会だが、今年も一部の審査が物議を醸した。審査員の一人が、個人的な好みで点数をつけているのでは、というものだ。審査員はあくまで漫才の技量を客観的に評価すべき、主観は極力避けよ、といった考えの人たちから疑問の声が上がったようである。

 たしかにその審査員は、番組での共演経験もあるらしい漫才師に対して特別の好感を示していたし、タレントとしてのスター性にもフォーカスしていた。

 人生を賭けて大会に臨んでいる出場者や、より公正なジャッジを期待するお笑いの熱心なファンからすれば、気がかりな発言に違いないだろう。

 だが、よく言われていることだが、文化・芸能の分野における審査や評価において個人の主観、さらに言えば「合う合わない、好き嫌い」が入り込むのは避けられないことである。たとえば、芥川賞直木賞の選評などを見ると、もちろん技術的なことにも言及しているが、選考委員はわりと好き勝手言っていることがわかる。それでも公平性がなぜ保たれているのかといえば、単純に両賞の選考委員がそれぞれ9人いるからかもしれない。個人の批評は主観でも、選考委員の人数の多さによって、客観的な結果が導かれるということなのだろう(もちろん最後は話し合いだ)。

 M-1グランプリの審査員も7人と少なくない。こちらも複数の審査員がいることにより、十分に客観性は確保されていると考えることが可能だ。したがって各審査に主観がある程度入り込むのは問題がない、というより望ましいことである。

 だから客観性を重視する人に言いたい。フィギュアスケートのように「言葉のチョイスが良いのでボケの基礎点が高くなります」「素晴らしい間の取り方です、今のツッコミには出来栄え点がつきます」「前半の伏線の回収不足は減点の対象です」などとエレメンツごとに評価され、漫才が終われば客席から花やぬいぐるみが投げ込まれ、出場者はラフ &クライで師匠(もしくはお世話になってる先輩芸人)にはさまれて一緒に点数発表を待つ。そんな大会の何が面白いというのか。面白そうである。

 ……という戯れ言はともかく、芸能の一つである漫才において、審査員の主観は、当たり前にそこにあるもの。客観性とは建前ではなく、審査における一つの要素にすぎない(たとえば会場が受けていた、という理由で加点する審査員もいる)。それでも最後に言添えれば、くだんの審査員の「私は好き」「あなたのファンです」という発言は、やや不用意だったと思う。

 特定のコンビに対する個人的な思い入れを、あの場でわざわざ口にする必要はない。もちろんリップサービスもあるし、ちょっとしたボケでもあるのだろうけれど、公平性に疑念を持たれしまったのは事実。そこに留意して頂いて、ぜひ来年も審査をお願いしたいのだが……。