ふきよせるかぜになびく文

根無し草の戯れ言です。労働とか文化とか。

明けの明星は東の空に輝く

 日本一の漫才師を決める漫才の大会、M-1グランプリが放送された。平成最後の開催で平成生まれのコンビが初めて優勝するなど、例年以上の大きな盛り上がりをみせ、視聴率もとても高かったようだ。僕はリアルタイムでは観られなかったけれど、録画したものをあとでまったりと観た。スポーツとちがって結果がわかっていても面白い。改めてすごいソフトなんだと感じる。

 さて注目度が上がるにつれ、審査員にも視聴者の視線が向けられる同大会だが、今年も一部の審査が物議を醸した。審査員の一人が、個人的な好みで点数をつけているのでは、というものだ。審査員はあくまで漫才の技量を客観的に評価すべき、主観は極力避けよ、といった考えの人たちから疑問の声が上がったようである。

 たしかにその審査員は、番組での共演経験もあるらしい漫才師に対して特別の好感を示していたし、タレントとしてのスター性にもフォーカスしていた。

 人生を賭けて大会に臨んでいる出場者や、より公正なジャッジを期待するお笑いの熱心なファンからすれば、気がかりな発言に違いないだろう。

 だが、よく言われていることだが、文化・芸能の分野における審査や評価において個人の主観、さらに言えば「合う合わない、好き嫌い」が入り込むのは避けられないことである。たとえば、芥川賞直木賞の選評などを見ると、もちろん技術的なことにも言及しているが、選考委員はわりと好き勝手言っていることがわかる。それでも公平性がなぜ保たれているのかといえば、単純に両賞の選考委員がそれぞれ9人いるからかもしれない。個人の批評は主観でも、選考委員の人数の多さによって、客観的な結果が導かれるということなのだろう(もちろん最後は話し合いだ)。

 M-1グランプリの審査員も7人と少なくない。こちらも複数の審査員がいることにより、十分に客観性は確保されていると考えることが可能だ。したがって各審査に主観がある程度入り込むのは問題がない、というより望ましいことである。

 だから客観性を重視する人に言いたい。フィギュアスケートのように「言葉のチョイスが良いのでボケの基礎点が高くなります」「素晴らしい間の取り方です、今のツッコミには出来栄え点がつきます」「前半の伏線の回収不足は減点の対象です」などとエレメンツごとに評価され、漫才が終われば客席から花やぬいぐるみが投げ込まれ、出場者はラフ &クライで師匠(もしくはお世話になってる先輩芸人)にはさまれて一緒に点数発表を待つ。そんな大会の何が面白いというのか。面白そうである。

 ……という戯れ言はともかく、芸能の一つである漫才において、審査員の主観は、当たり前にそこにあるもの。客観性とは建前ではなく、審査における一つの要素にすぎない(たとえば会場が受けていた、という理由で加点する審査員もいる)。それでも最後に言添えれば、くだんの審査員の「私は好き」「あなたのファンです」という発言は、やや不用意だったと思う。

 特定のコンビに対する個人的な思い入れを、あの場でわざわざ口にする必要はない。もちろんリップサービスもあるし、ちょっとしたボケでもあるのだろうけれど、公平性に疑念を持たれしまったのは事実。そこに留意して頂いて、ぜひ来年も審査をお願いしたいのだが……。