ふきよせるかぜになびく文

根無し草の戯れ言です。労働とか文化とか。

高いところから失礼しているよ

 日本は選挙の投票率が低い。投票に行かなかった人に理由を聞くと「投票しても結果は変わらないから」と答える人が少なくない。たしかに、あなたの1票が当落を直接左右することはないかもしれない。

 しかしながら! 主権者たる国民が民意を示すべき貴重な機会を放棄することは民主主義の根幹に関わる問題であり有権者全体の数十パーセントに過ぎない票しか得ていない政党が政権を担うような現状は・・・などと選挙制度の課題についても話したいのだが、今日は別の話をする。

 朝礼のある朝は憂鬱である。小学生の話だ。授業前のゴールデンタイムを中断して校庭まで行かなくてはならない。雨でない限りは冬でも校庭だった記憶がある。体育館で良いのに。そして、整列に時間がかかると先生に叱られた。良い思い出がない。

 そして、最も悪名高いのが「校長先生のお話」である。これは「長い」と相場が決まっている。今考えれば、うしろの授業もあるし特段長いはずもないのだが、小学生だった自分の感覚だと、牛たん戦術で絶賛フィリバスター中なのではないかというレベルの永遠を感じた記憶がある。もしかしたら、忍耐力を身につけさせるために、校長の話は長いほうが好ましいと文科省が指針を示しているのかもしれない。それなら仕方あるまい。個人的には忍耐力というより退屈な時間をいかに凌ぎ切るかという技術(空想および妄想)を体得したので、結果的に良かった気さえしてきた。

 だが数十年前の朝礼の話を今さら持ち出したのは、校長の長広舌に物申したいからではない。もっと重大な憤怒がある。

 

校長「みなさん、おはようございます!」

児童「おはようございます」

校長「あれ、元気がないですね、もう一度、おはようございます!」

児童「おはようございます!!」

 この一連の決まり問答が、大嫌いなのだ。

 大人になればわかることだが、朝から大きな声など出るわけがない。僕の感覚だと喉が本格的に起きてくるのは脳の5時間後である。声帯のコンディションを度外視した無理筋の要求に安易に従えるだろうか。そもそも小さい声より大きい声のほうが上等であるという価値観が意味不明である。声量の大小で挨拶の価値が変わるはずはないのだ。むしろ社会では声の大きいヤツはもれなく鼻つまみ者扱いされているし、居酒屋でもカフェでも騒がしい人間たちは安そうな服を着ている。

 そういうわけで、僕はうながされても決して大きな声を出さないひねくれた子どもだった。なにより自分が声を出そうが出さまいが、全体の音量に影響を及ぼさないことを知っていた。それでも今、僕は欠かさず選挙に行っている。

 不思議なのである。みんなは「元気がない」と言われれば大きな声を出していた。気づいている人もいたはずだ。自分が声を出さなくても校長が満足することに。

 どういう気持ちに突き動かされて大きな声を出していたかはわからない。だけど自分の声が「おはようございます」という空気の振動のひとかけらに過ぎないと、なんとなくわかっていながらも腹から声を出したのなら、大人になった今、1票を投じるべきじゃないだろうか。校長の機嫌も選挙の結果も、あなた一人の声では変わらないにせよ、それらより大事なことはありそうだから。

 

 

またベイスターズのファンになる

 1ヶ月ほど日本を離れている間に横浜DeNAベイスターズの2018シーズンが終わっていた。

 今は本当に便利で、海外にいても経過や結果を知れるどころか、試合の生中継が無料でネット配信されている。時間が合えばちょこちょこスマホタブレットで観戦していた。日テレの巨人戦とtvk(テレビ神奈川)で放送する主催試合の一部しか見られなかった時代を知る身としては、ありがたいを通り越えて「いいの?」という感慨である。余談だが、ベイスターズは年に1度、平塚球場で1軍の公式戦があったのだけど、tvkはその中継さえしない年があった(横浜から平塚までは車で1時間ちょっとの距離なのだが……)。北海道の放送局が日ハムの交流戦のときハマスタまで中継を結んでいるのを知り歯噛みしたものだ。

 異国の地からベイスターズの試合が観られる!

 だが応援に熱が入らない。図ったわけではないが、CSに間に合うように帰国する予定になっていた。でも何としてでも3位に滑り込んで欲しいという気持ちにならないのだ。

 なぜかといば、自分が離職中で贔屓のプロ野球チームを応援しているような状況ではない、ということで話は終わるのだが、それでは書くことがない。

 だけど、ちょうどいいことにもうひとつ理由に心当たりがあった。簡単なことである。僕は「横浜DeNAベイスターズ'18」のファンじゃなかったようなのだ。

 試みに最近のモーニング娘。のような言い方をしてみたが、モー娘。の熱烈なファンは、年が変わったという理由だけで急に熱が冷めることはないだろう。僕だって年も変わったことだし、今年は阪神を応援しよう!などと無節操に宗旨替えを行うわけではない。だがラミレス新監督を迎えて初のCSに進出した2016年、CSで広島を破り日本シリーズの舞台でソフトバンクと死闘を演じた2017年に心踊りすぎたのだ。最後までついぞチームへの思い入れを持ちきれなかったことと、近年の躍進は決して無関係ではない。

 長い長い低迷期を経て日本シリーズに進んだ昨シーズンは「弱いチームが強くなるまで」という典型的なサクセスストーリーの最終章だった。リーグ優勝、日本一こそ逃したけど、それがひとつの区切りだったことに違いはない。『スラムダンク』が全国優勝して完結したわけではないように。

 これが映画だったなら数年後に配役と舞台設定と監督を変えてリブート作品を作れば済むのだが、プロ野球には来シーズンがある。

 当然のことながらシーズンが変わればチーム編成も変わる。レギュラー級の選手がトレードやFAでチームを離れることも珍しくない。アイドルグループにも卒業はつきものだが、古参のメンバーが戦力外通告を受けて脱退したり、白石麻衣がFA宣言しても「もクロ」に移籍したりすることはない。

 そうは言っても30代を迎える前にほとんどのメンバーが卒業するアイドルグループの方が組織としての代謝は速い気もする。だが調べるとプロ野球選手の平均引退年齢は29歳。偶然なのか両者のプレーヤーとしての寿命は似ている。属する集団の血の入れ替えのペースも然りだろう。その上で、結果を残せなければ契約の更新をつかめないプロ野球の世界はより過酷な面がある。重みは違えど、それはファンにとっても。

 もちろん人間の細胞が日々入れ替わっても私は私であるように、登録選手の一部が変わってもベイスターズというチームは青く存在し続ける。

 それでも僕の場合、1年をかけて好きになったチームのリセット感を禁じ得ない。少なからずの熱量は確実に失われる。だから毎年、シーズン序盤はチームの勝敗にわりと無頓着になっている。

 試合の中で見せる一所懸命なプレーやチームワーク、勝利への執念……新しいシーズンを迎えた選手たちのグラウンドでの躍動によって、その年のDeNAベイスターズへの親愛の気持ちは醸成されていく。そう、時間がかかるのだ。

 一昨年、去年、もっといえば中畑監督時代も強くなかったけれど、シーズンが進んでいくうちにチームが少しずつ変わっていくという実感があって、それが僕のベイスターズへの熱量になっていった。

 もちろん今シーズンの選手たちの姿を、勝ちへの執着が見えないとか、去年日本シリーズまで行って気が抜けていたなどと批難するつもりはない。要するにある意味で夢を見てしまった昨シーズンの影響で例年より余計に失われた熱量を取り戻すほどのプラスアルファの要素がなかったのだ。その不足分は単純に去年より強ければ補うことができたかもしれず、結局「来年こそ優勝だ!」と、自分が愛すべきプロ野球ファンであることを再確認している。

 黄色く染まり出す街路樹。秋季キャンプは近い。

かばんは四次元ではないけれど

    長財布がズボンのうしろポケットから、半身どころか、選挙カーの窓から体ごと乗り出す鈴木宗男の箱乗り状態となってこぼれ出ているのをたまに見かける。前からあれを見るにつけて、落としたり盗まれたりしないのだろうかと、他人事ながら心配になる。

    僕の財布はいつもかばんの中だ。それがいちばん安心だから。本当にそれだけの話なのだが、うしろポケットに財布を収める人たちを考察してみようと思う。暇である。

   それはおもに若い男子。チャラい傾向が認められる。夏季に限れば、デニムの短パン率が7割を超えている。そして総じて荷物が少ない。もっと言うとかばんを持たない。あぁ、そうか。かばんを持たない彼らがものを収める場所はズボンのポケットしかないのだ。そして前はスマホだろうから、おのずと財布の場所は決まってくる。

    ではなぜ彼らはかばんを持たないのか。お金がないのか。いや、ちがう。かっこいいのだ。「ものを持たない=スマート」という価値観は必ずしも主流ではないが、いつの時代も絶えず存在している。子どものころ、たとえば放課後や休みの日、僕たちはかばんを提げて出かけたりはしな買った。つまりものを持たないというのは、それだけで煩雑な社会と一定の距離を取っている印象を与える。そして、そういう人はだいたいモテる。

    扇子、目薬、眼鏡、リップクリーム、スマホの充電器、目薬、ボールペン、ミンティア、文庫本、日傘、飴(散乱)、ガム(散乱)……。

    今、自分のかばんをのぞいたらこれだけのものが入っていた。もちろんこの文章を書くための電子機器も。財布ひとつで街を歩けるって知っていながらなぜこういうことになるのだろう。大長編で急な敵襲を受けたドラえもんが決して空気砲を一発で出せないように、いざと言うときに必要なものがサッと出ず、まごつくこともしばしばだ。もっとも、気の利いた言葉とか機転の利いた応対とかがサッと出てきたこともないので、いまさら悲観するようなことでもない。

 少年のように身軽でありたいけれど、抱えてる荷物はあまりにも多く、重い。モバイル版ミニマリストを目指し、とりあえずはべたべたの飴とふにゃふにゃのガムをかばんから放逐しようと思う。

 

 

 

never surrender

 僕のまちの映画館は、妙に遅れたタイミングで少し前の話題作を上映することがある。観たかったけど観れてない作品をやってくれると大変ありがたい。『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』もその一つだ。

 数年前に公開され、メリル・ストリープアカデミー賞で最優秀主演女優賞を獲った『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』が個人的にとても好きだったので、英国首相ものに外れなしの予感があった。

 映画は、与党内の政治的混乱を収めるべく首相に選ばれたチャーチル第二次世界大戦を勝利に導くまでを描く。僕は去年『ダンケルク』を観ていたので、あの壮絶な撤退戦の内幕をイギリス側から垣間見れた気がして、興味深かった。ワンセットで観ることをおすすめしたい。

 そして今日、言いたいことは一つだけ。 

 地下鉄に乗りこんだチャーチルが、ヒトラーとの和平交渉に応じるべきかどうかを乗り合わせた市民に聞くシーンだ。それは、政府与党内の意見がナチスとの交渉を有利に進めるための早期降伏に傾き、主戦論チャーチルにも迷いが生じ始めていた。まさにそのときのことであった。

 だが、チャーチルがそこで耳にしたのは「絶対に降伏してはいけない」という乗客たちの声だった。チャーチルナチスと戦い続けることを選択し、これがダンケルクにおける救出作戦の成功、そしてのちの連合軍勝利へとつながるのである……というのが映画後半の流れである。

 さて、一応調べたが当然のことながらこの地下鉄のシーンは創作である。英国首相が身一つで地下鉄に乗ったりはしない。もちろん実在の人物を扱った作品に架空のエピソードがあっても何ら問題はない。むしろ、その人物の人となりを際立たせるために効果的となる場合も多い(というか、それが狙いだ)。実際、チャーチルは国民との対話を大切にした政治家だったらしいから、地下鉄の場面は重要なシーンだったとも言える。

 ただ僕はそれがチャーチルの政治的決断を後押しした、というより決定打になったという描かれ方に少し違和感を覚えた。国民たちから意見を聞いて、これが本当に国民が望んでいることなんだ!と地下鉄の車内で意を強くするチャーチルが、党内の権力争いや王室との対立、目まぐるしく変わる戦況、そういった難題を前に苦悩してきたそれまでの姿に、少なくともぴたりとは重ならなかったのだ。

 それは『ショムニ』『HERO』『カバチタレ』といった既得権益や固定概念、古い価値観に立ち向かうタイプの主人公が活躍するテレビドラマの終盤でよく見る光景だった。英国の偉大なリーダーを描く作品で、ラストにエンタメ色の濃いカタルシスを持ってくるのはどうなんだろうと、僕は少し感じてしまった。

 もっともそういう展開を可能にさせるのは、チャーチルが絶対的な権力者ではなくて、党内での政治力学や国民世論にも目配りするような普通の(あるいは凡庸な、時にポンコツの)政治家としての一面を持っていたからだ。事実、映画の前半では野党の協力を得られるという理由だけで首相に選ばれた経緯や、過去の数々の失政、所属政党を変える節操のなさなどにも触れられている。

 つまり本作は、第二次世界大戦を勝利に導き、名宰相として知られるチャーチルが、少なくとも首相就任前までは偉大ではなく、むしろしくじりまくっていた偏屈ジジイだった、そういう人間くさい部分にこそ光を当てたかったのだろう。

 イギリスでは今でもチャーチルの人気が高いと聞くが、それは戦争に勝ったからだけではなく、そのような人間味によるところが多いのかもしれない。期せずしてメインストリームに流れ込んできて、大きな渦を巻き起こす傍流の人はいつの時代も好まれるようだ。そういえば、サッチャーだってまさにそういう存在ではなかったか。

 

 

ヒゲ脱毛しない未来もあったけど ①

 ヒゲが濃い。しかも肌が白いのでそれが目立つ。悪目立ちだ。

 ヒゲの脱毛は学生の頃から何度か考えたが、時間がかかる。お金もかかる。美容外科のプランを見るたびに、まぁいいかと思い留めていた。だがこのたび図らずも時間ができたので、数年ぶりにいくつか美容外科のサイトをのぞいて見ることにした。すると予想以上に手頃な価格、しかも短期間で施術が可能ではないか。美容医療は日進月歩で、脱毛の器具も進歩しているらしい。

 いくつかの美容外科を比較検討し、自宅から電車で数駅のところにある、院名に地名が入っているクリニックを選んだ。あご・鼻下と頰の各6回コース(ヒゲが一定量減るとされる標準的な回数)がそれぞれ約3万円なので合計6万円である。かつては10万円は軽く超えていた気がするので、かなりリーズナブルになったと言えるだろう。期間も1回の施術ごとに1〜2ヶ月の間隔をあける必要はあるが、それでも1年以内には終わるスケジュール感だ。これも以前に比べれば早くなっている。

 ネット上で予約したカウンセリングの日を迎え、クリニックへと足を運ぶ。もともと無意味に身体が丈夫なので、皮膚科と歯医者くらいにしか普段行くことがない。美容外科の客層の想像がつかないが、おそらく男性は少ないだろう。

    クリニックの扉の前に立つと少し躊躇した。美を追い求める女性たちが集う空間、いや未知なる世界に飛び込むときには、一握りの勇ましさがいるのだ。『Shall we ダンス?』の役所広司もダンス教室の入口に立ったとき同じような表情をしていたかもしれない。今度金曜ロードSHOW!でやってたら確認してみよう。

服をまとわぬ俳優たちは

 もし仲のいい女友達がいて「『君の名前で僕を呼んで』観た?」と訊かれたら「ティモシー・シャラメが上半身裸で出てくる映画ね」と返すだろう。

 映画の舞台北イタリアの夏が温暖なのはよくわかったが、あまりに多いので(家の中でも)、また裸かよって思ってしまった。ティモシー・シャラメの身体は美しい。それは筋肉隆々ではなく、若くて肌がきれいという意味で。だから、別に構わないのだけど。

 北野武主演のウェイン・ワン監督作品『女が眠るとき』の西島秀俊にもホテルのプールサイドで水着のシーンがあった。鋼のような肉体が凄すぎて、物語と無関係にため息が出た。そして小説家という役柄だったので、そんな筋肉の作家っているかな……とつっこみたくもなった。

 そういえば、是枝裕和監督の『誰も知らない』でも柳楽優弥演じる少年は、家の中のシーンでは上半身裸が多かった(はっきり覚えていないが、ポスターはそう)。だがそのことが気になった記憶はない。子どもだからだ。

 ある程度の年齢を重ねると、その役者の人生がどうしても身体に出てしまう。西島秀俊がそうであったように、作中のキャラクターにぴたりと一致する体つきを都合よく俳優が備えている幸運は少ない。これは役作りやメイクアップ(顔や髪とちがって)だけではごまかせないものだ。暗がりのベッドシーンなら問題なくても、明るいシーンではやはり気になる。『グラディエーター』みたいにほとんど上半身裸のシーンの映画なら役作りの一環として、演者は身体を鍛えるだろうが、体型があらわになるシーンが限られるような映画やドラマではそうもいかないはずだ。

 つまり映画の上半身裸とは、基本的に若い俳優だけに向いている被写体なのではないだろうか。それならば、夏の北イタリアでカメラを向けない手はない。なにより観客たちは若い男の裸が嫌いではない。

 『君の名前で僕を呼んで』は、すぐれた映画ではあるが起伏の少ない展開のために、ややもたもたする時間帯が訪れる。だが、それでも観客の心を離さないのは、ティモシー・シャラメの美しさによるところが大きかった。彼の整った面立ちは十分に観客を惹きつけるが、もうひと押し!と文字どおり一肌脱いでもらいたくなる監督の気持ちはよくわかる。

次の段階を踏むにあたって

 思うところがあって6年近く働いていた会社を辞めたのは春のことで、今現在はフリー(自由あるいは無職)である。この1週間あれこれ思案したところ、今いちばん筆が乗るのは、ぼくが仕事を辞めるまでの経緯ではないかと思い至った。

 ぼくが民間企業に雇用され、職務専念義務を遵守しながら会社の利潤の最大化のために働いた期間についての事柄を忘れないように書き記しておく。そういう面倒そうなことが、次の段階を踏むにあたっての大切なプロセスであるように思えたのだ。大切なことはしばしば面倒だ。だからこれはいわゆるブログというより、備忘録のようなものかもしれない。 

 もちろん、それ以外のことも書くつもりでいるけれど、もし以前の仕事の話を見つけたら「暇なやつだな、また備忘録を書いてやがる」と思って頂ければ幸いです。そもそも読者がいるのかわからないけれど。